片付け。

興味が「片付け」に向いています。最近。
お店のバックヤードやレジカウンター下などを先日、1日かけて片付けました。
放っておくと、知らない間にいらないものとかが増えて、何がドコにあるか探すのが大変だったり、します。

 美への価値観や美を作り上げる方法は、多角的にいろいろあるけれど、
 私はどちらかというと、「内面から湧き出る美」にフォーカスしたいタイプ。
 もちろん外見的な美も必要。つまりはバランスですが。
 内面的な美が外見にも反映される、というのは、美を追求する上でやはり避けては通れないポイントかな、とも思います。内面的な美=体内の片付け、とも捉えることができるようです。

 ということで、トライしてみたのが「洗腸」。しかしあっという間に1回目の結果は断念。
 これはかなりの覚悟と決意が必要でした。ちょっと甘く見すぎていました。
 時間があるときでないとトライできないので、また再度近いうちにチャレンジしたいと思います。

 ということで、とりあえず物理的な片付けに戻っています。

 キレイを維持するのは実は非常にシンプルで、簡単なこと。
 「使ったものは、使い終わったらすぐに元あった位置に戻す」
 これを徹底するだけでも、部屋の中は常にキレイをある程度保てるものです。

 埃や汚れも、1日3分程度の拭き掃除だけを、コツコツと積み重ねるだけで大掃除が格段に簡単になります。

 とは言え、その3分がなかなかできないのが現実。

 私の片付けの極意は、何しろ「捨てる」。
 これは、ゴミにして捨てる、リサイクルとして捨てる、必要な人にあげる、、などいろいろな形はあれど、今ある場所からもう必要のないものを手放す作業です。

 1年着なかった洋服は全て、古着のゴミの日にリサイクル品として出します。
 冷蔵庫の中には、ここ1-2日に食べる食材のみ。保存食は冷凍庫。調味料も必要最小限。
 至って質素です。

 別に節約しているわけでも、ないけれど、自然にそういうスタイルが自分にとって居心地の良いライフスタイルであることが、ここ3-4年で確立されてきたからです。

 質素なライフスタイルの元になっているものはなんだろう、とちょっと考えたら、
 あまりに居心地の良い「キャンプ生活時代」に起因しているのではないだろうか、、と
 ふと思いました。

 かつて四万十川を10日間くらいかけて上流から太平洋に向かってカヤックで下りながら、キャンプをしていたとき。
 最小限の荷物からさらに極最小限に減らした荷物をカヤックに積みこみ、その日に食べるものは、移動スーパーなどで調達。四万十川周辺で栽培されたサトイモや、生きたままのサワガニを、豪快に。火種は焚き火。夜は星を見て。焚き火を囲んで。お酒を少し。
 カヤック中は、ひたすら川の流れと一体になる。川と一体になる。のんびりと。

 かつて、2ヶ月くらいキャンプ生活を送っていた長野県の山の牧草地。焚き火の匂いが浸み込むほどに使い古された小型三角テント。2ヶ月間もキャンプなのに、荷物は本当に質素でした。マイ食器はコッヘル3個とマグカップ1個とお箸だけ。これで十分でした。
 その頃は携帯電話も、まだまだ普及していないような頃(15年くらい前?)だったから、生活そのものがとってもシンプルでした。

 かつてアイダホ州の山々をキャンプでバックパッキンぐしていました。標高が高く、クリスタルが採掘される山々を歩きながら、クリスタルを採掘しながら、手作りの杖で険しい山を登り、夜は、草原の真ん中や山間でテントを張ります。夜中にはすぐ近くをエルクなどの動物が横切ったりしています。セージの香りがプンプンする中でのキャンプは、自分が人間であることをふと、忘れてしまうような錯覚に陥ります。

 そんな日々が自分の中では、極めて「自分らしい」生活を送れる環境であったのだ、ということに、今の家に住み始めて、気づき始めました。
 
 とは言え、家の中でキャンプ同等の生活をするのもなんだか偏りが生じるので、せめて、荷物だけはできるだけシンプルに。質素に。
 
 となると、やはり、「今、必要なものだけあればいい」。
 というところに行き着きます。先日、ビデオデッキもDVDデッキも処分してしまいました。

 何度かこのブログでも書いているけれど、片付けとかって、ほとんど瞑想です。
 だから、片付けが終わった後は、脳とかすこぶるすっきりしていたりします。

 唯一、捨てない荷物。そしてそれらがかなりの占有面積を占めているもの。
 それが、写真アルバム。
 これはなんだかやっぱり処分除外品です。棚が、自分と息子の写真アルバムだけで、いっぱいになっています。

 片付けが終わったら、家の中の砂壁を、しっくい風に塗り替えたいと思っています。お店の壁をしっくい風にテコで塗って、ペンキを塗る作業をしていたときに、こんなに楽しい作業ならば、これは是が非でも、家の砂壁にもやらねばならぬ、、と思ったからです。

 片付けられない、、捨てられない、、、という気持ちは、一見、何のつながりもないようにも思えるけれど。実は自分の心のなかにある、「何か」が手放せないが故の、それが物理的な捨てられない、、に投影されて、つながっていることが多かったりするものです。

 一度覚悟を決めて片付けてみると、案外そうした心の中の「何か」が簡単に手放せてしまうこともあったりします。お試しを。

 

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