動物と暮す、ということ
動物と暮す、ということ

動物と暮す、ということ

 私は動物が好き。基本的に何でも好き。

 動物の生態系とかを知るのも好きだし、昆虫にいたるまで彼らの底知れない活力とか、生命力とか人間には到底当てはまらない行動様式とか、本当に好き。

 ディスカバリーチャンネル、とか結構息子と見入っちゃいますねぇ(笑)。

 

 だけど、動物の生態系がすき、興味がある、っていうことと、動物と生活を共にする、っていうのはまた別問題だったりもするよね。

 

 私は家族の一員として「犬」がいます。もうかれこれ7年くらい。

 現在のテディ犬の前にも実家でベドリントンテリア、というイギリスのテリア犬を飼っていました。

 

 ネコも飼いたい、と思う。環境が許せば。ブタだって、チキンだって、ウサギだって、金魚だって、環境が許せば、家族の一員として一緒に生活したいと思う。そのくらい、やっぱり好き。

 ゴキブリ以外は、虫も嫌いじゃないし。生き物全体的に興味があるし、前にも言ったことあるかもしれないけれど、20代前半挫折したことがある頃は、本気で、北海道のむつごろう王国に就職(はたまた押しかけ女房)しようか、と悩んだこともあったっけ。

 

 それでも、動物と一緒の生活は半端な気持ちじゃできない。

 ある意味、子育てよりもすんごく責任が問われるし、信頼関係の絆が動物によっては深かったりする。犬がその典型だよね。

 

 我が家の犬も当然、忠犬ハチ公さまのように、「待ってなさい」と言えば、私が立ち去る方向をじーっと見つめ、鼻をクンクン鳴らしながら待っている。彼にとって、私は集団の中の絶対的リーダーだからね。

 人間の子供はここまで服従はしない。(服従されたら気持ち悪いし(^^ゞ)。

 

 先日、秩父に住む友人宅へ遊びに行ったとき、彼女の家に飼われ始めて1年、というポメラニアンのシロ君がいた。その日が、彼女の家で過ごす最後の日でした。

 というのも、友人は1年間お母さんの介護を続けており、ある意味精神的にすごいストレスの1年で、そのときにシロ君を飼い始めました。そして、今年、友人のお母さんは近くの介護ハウスへ引越しをしました。

 もともと東京暮らしの友人は、やっぱり犬がいるとどうしても時間を気にしてしまうし、東京で仕事していても飲んでいても、1人で留守番している犬のことが気になってしまう、、と言って、結局、地元の知り合い宅へ譲ることが決まっていました。

 友人宅での最後の日を一緒に過ごそう!ということで、我が家のテディ犬も連れて遊びに行ったのでした。

 2日後、友人と電話で話しをする機会があって、そのときに友人は、「やっぱりねぇ、私のほうが断ち切れないんだよー」。「??」な私。

 シロ君犬を知人へ託した次の日、東京へ仕事で出かけ戻ってきた友人は、なんとも空っぽな家に1人。やるせない気持ちになってしまったそうです。

 彼女の家はかつてお母さんも一緒に住んでいた、ということもあって、1人で住むには広すぎる、っていうのもあるけれど、シロ君のたった12キロの存在がこんなにも大きくて、彼女の胸にぽっかりと穴を開けてしまうとは、彼女自身、想像していなかったことでした。

 

 1日考えた挙句、彼女は、シロ君を譲った知人に、「シロ君、返してください。ごめんなさい」と言って、シロ君を迎えに行きました。

 

 私は、最初、シロ君を知人に譲る、っていう彼女の話を聞いたとき、否定も肯定もしなかった。だって、その人その人で事情があるし、少なくとも、そこらへんに捨てたり、故意に命を奪ったりするわけじゃないから。彼女は彼女なりに、精一杯シロ君を愛してあげて、それでも今後の自分の生活の中でやっぱり、シロの存在は自分の自由がある程度束縛されることにもなるので、決断をしたことでした。

 それが、結局、いなくなって初めてシロの存在感の大きさに気づいた彼女は、「もう、これで自分がどれだけシロとかかわりを持って生活の中で家族として生きてきたか、この1年がこんなにも私たちにとって深いものだったってことが分かったから、今度は、二度と、シロを手放そうなんて思わないで、最後まで一緒に暮らそう思う」って言いました。

 心の中で、そしてもちろん彼女自身に、拍手を送りました。

 彼女自身、実は「私はどちらかというと手間のかからない自由奔放なネコが好きなのよねぇ。犬はなんか精神的に重たすぎるのよ」とかつては言っていただけに、びっくりしたけど、そんな変化に一番びっくりしたのが彼女自身で、そして、それを受け入れる決心をした彼女は立派な飼い主さんになるよ、きっと。と思いました。

 

 一方、私の実の父よりも、父みたいに仲良くしている友人のところのチーズ君享年16歳、が先日、天国へ旅立ちました。

 チーズ君は、友人夫婦にとっては、ほんとうに子供以上に子供のような、しかもかなり甘やかされベタベタでした。友人夫婦の本当の人間の子供たちはとっくに独立して、ケッコンしたり、子供もいて、友人夫婦には孫だっているんだけど、チーズ君だけは、いつまでたっても彼らのソバから離れず、箱入り犬で、ぬくぬくと可愛がられていました。

 友人は、自分の日記でそのことを書いていました。

 「私はペットを飼うのは最初は反対でした…今日のような別れが来るのが辛いと思ったからです」

 そう、少なくとも、犬やネコは、人間の平均寿命よりも短い。だから、普通に暮らしていれば、自分よりも先に天国へ行ってしまいます。

 その別れは、今回の友人のように音沙汰なく突然来るかもしれません。

 現在のテディ犬の前に実家で飼っていたテリア犬は、ある日、右脳の細胞がプチっと切れて、左半分が不随になりました。その状態で、私と母とで2週間、交代で寝ずに看病して、そして静かに息を引き取りました。

 あの日のことは今でも鮮明に覚えているし、思い出すたびに涙が溢れます。忘れられないです。

 

 それでも、数年後、私は、テディ犬をまたもや家族の一員として迎えてしまいます。

 なんでだろう?

 

 私にとっての「犬」は、もう「犬」ではなく、やっぱり家族の一員。家族は多いほうが楽しい。

 犬がいることで、融通が利かないこともたくさんあるけれど、そんな不自由さとは引き換えにできないくらいの「楽しさ」と「愛情」をお互いにもらえるから。だから、家族としての「犬」を迎えてしまうのかなぁ。

 

 人間の子供ができてから、さらに自分1人の時間が少なくなって、どこへ行くにも「犬」「子供」セットになってしまって、本当に実はタイヘンよ(笑)。

 何をするにも、まず、「子供」。まず「犬」。それぞれの欲求を満たしてあげなきゃいけないもんね。

 

 だけど、それでも、幸せ。だから、幸せ。とも言うかも。

 実際、テディ犬がいなければ、私とロニーと2人だったら、住むところだってカンタンに見つかるし、もっともっといろんなところへ遊びにいけるし、、って思うことは正直、ある。たくさん何度もある。

 でも、じゃぁ、テディを誰かにあげられる?って聞かれたら、即答でNO。

 自分の腹を痛めた子供じゃないけれど、それは、まさに、子供をよその人にあげてしまう行為に感覚としては近いもの。できるわけないじゃん?

 

 立て続けに、友人たちがそれぞれの家族である、「犬」について、別れ、再会、死、というそれぞれの状況になって、それを第三者としてみていた私も、改めて、動物と暮す、ということの責任の大きさ、を実感しました。

 

 そして、我が家のテディ犬も平均寿命の折り返し地点にさしかかろうとしています。人生半分。

 残りの人生(犬生か、)半分を、今まで以上にテディ犬を愛して、家族として何があっても共生してゆきたい、と。

 そんなことを考える今日でした。

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